2024年12月16日
■エイトリアンカップの2クラス、Absolute・Enjoy〜絶対と楽しさのはざまで〜
──サーキットとは、不思議な場所だ
そこに一歩足を踏み入れると、日常が遠ざかり、異世界の風景に引き込まれる。冷え切った冬の朝、冷え切ったパドックに差し込む光は柔らかく、それでいて鋭い
ピットロードに並んだ車たちは、ただ静かにその時を待つ
その静けさの中には、期待と不安が幾重にも折り重なり、ドライバーたちの心拍と共鳴している
──エイトリアンカップは、そんな場所で始まる
AbsoluteクラスとEnjoyクラス、この二つのクラスは、一見すると相容れないもののように思える
Absoluteクラスは「自由」の象徴だ
レギュレーションの範囲内で可能な限りの改造が許され、ドライバーはその自由の中で自分の限界と向き合う
速さを求める者、操作性を追求する者、あるいはただ「自分の車」を極めたい者──目的は違えど、すべての想いがエンジン音となり、タイヤの軋みとなってサーキットに響く
それは人生そのもののようでもある
夢と挫折、努力と歓喜
そのすべてが車の挙動に宿り、一周一周のラップに刻まれていく
一方のEnjoyクラスは、Absoluteとは対照的に「制約」を持つ
その制約が競技の純粋さを際立たせる
タイヤは225/45R18のダンロップZ3に限定され、当日のタイヤ交換は禁じられ、助手席外しや軽量化も許されない
制約・制限の中で、ドライバーたちは自身の技術を頼りにコースを攻略する
余計な要素がそぎ落とされるからこそ、走る楽しさがむき出しになる瞬間がある
私はこのクラスにこそ、愛車でのサーキット走行の本来の楽しみ方を見出すのだ
それは車を操ることの喜びであり、同じ条件で勝負することで生まれる緊張感だ
AbsoluteとEnjoy───この二つを並べたのは、実は私自身の中にある二つの相反する思いが形となっているからだ
自由、そして絶対を追い求めると同時に、縛られた中での創意工夫やサステナビリティを楽しみたいという矛盾
それは私だけではないだろう。ドライバーたちもまた、日常の中で自由を求め、時に制約の中で生きることに美しさを見出している
サーキットという非日常の空間だからこそ、その両方を体現する場所を作りたいと考えた
特にナンバー付きの車両でサーキットを楽しんでいるのなら、なおさら、だ
Absoluteクラスのドライバーがコントロールラインを超える時、彼らの胸に去来するのは達成感かもしれない
enjoyクラスのドライバーがエンジンを切る時、彼らの顔には穏やかな笑みが浮かぶかもしれない
その瞬間の感情はそれぞれ異なるだろう
だが、一つだけ確かなことがある
それは、この一日が両者にとっても忘れられないものになるということだ
かつて、あるドライバーが言った
「速さを求めるのは怖い。でも、そこにあるのは怖さだけじゃない。走るたびに、過去の自分を超えた気がするんだ」と
その言葉を聞いた時、私はハッとする
自由と制約
速さと楽しさ
それらすべてが、ドライバーにとってはただ一つの感覚──「走る」という行為に収束していくのだろう
今日もまた、サーキットには朝の光が差し込む
パドックの中で、Absoluteクラスのドライバーはエンジン、そしてタイヤを温め、Enjoyクラスのドライバーはタイヤの空気圧を調整し、自身の身体を動かし暖める
それぞれが異なる道を走るが、ゴールラインを越えた後、彼らは同じ空を見上げるだろう
薄暗くなる夕空の中、ふと漏れる笑い声が聞こえる
その瞬間、このイベントが生み出したものが、確かに存在していたのだと感じられる
時が経ち、この日のことを思い出す頃、彼らは何を感じるだろうか
Absoluteクラスの速さに身を震わせた者も、Enjoyクラスの仲間と笑い合った者も、記憶の中のサーキットは同じように美しく輝いているはずだ
その時、彼らの心に浮かぶのは、きっとこうだ
「あの時、僕らは確かに走っていた」と───
エンジン音が遠ざかり、コースには静寂が戻る
その静けさは、まるで次の朝を待つようだ
AbsoluteもEnjoyも、すべてが一つの輪の中に収束する
エイトリアンカップはそんな「時」を紡ぐ場所でありたい
それが私の願いだ
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筑波とRB160
多分行くわ
あの時は良かったよナ───
そんな風に過去を振り返るだけのオトナにはなりたくなったけど、最近そういうコトを言う連中のコトも理解はできる
ただやっぱりオレは、ずっと前を向いて進んでいきたい
ワガママなのかもしれない
しかしあの場所、筑波とRB160 YOKOHAMAで、ずっとオマエが来るのを待っている